顔八王子伝統工芸の高い技術と正直な「ものづくり」を次の世代へ


第2話第2話 機の音と共に過ごした戦前・戦後

機の音を聴きながら、そして戦争へ

―― 澤井さんは昭和16年、二十歳で織物の仕事を始めたそうですが、その以前も家業の手伝いなどはしていらっしゃったのですか?

撮影:柳本史歩
澤井榮一郎 さん

ええ、オギャーと生まれたときにはもう機の音がしていましたからね。当時は手織りでしたが、その音が子守唄代わりです。うちの中で男衆(おとこし)がみんな織物の仕事をしていますから、見よう見真似でだんだん頭の中に入ってくるわけですよ。小学校1年ぐらいからは結構手伝いもしました。織染学校に行っている頃は学校以外の時間はずっと手伝っていました。

学校のそばに八王子で一般的な織物を作る工場があって、うちでもそういうものを利用する織物をやっていましたから、その荷物を自転車の後ろに載せてね。ここから八王子市内まで自転車で1時間かけて通っていました。おかげで足腰も鍛えられましたね(笑)。話が横道にそれますが、青梅のマラソンがあるでしょう。あれは昔からあって、私は中学(旧制)の時に区間記録を出したんですよ。今でもその時にもらった賞品をこうやって付けてますよ(とベルトのバックルを見せる)。

―― それはすごいですね。 2600という数字が入っていますが?

この「2600」は皇紀2600年という意味です(「皇紀」は初代神武天皇の即位を紀元とする日本の紀年法。2600年は昭和15年、西暦1940年)。剣道も初段を取って、おかげでその後兵隊に行ってからいいこともありましたよ。東大を出たりした人がすぐ将校として入ってきますでしょう。将校は刀を下げていますが、剣道が出来なくて刀だけ持っていても格好がつかないんです(笑)。それで澤井君、教えてくれないか、なんて言われてね。こっちは一つ星の初年兵なんだけれど、教えるとすごくご馳走してくれてね。将校の食堂と兵隊の食堂は違うんですが、ご馳走してくれる時は将校の食堂に呼ばれるんです。そんなこともありましたよ(笑)。

―― 兵隊はどちらへ?

満州です。東部九部隊といって、習志野に騎兵の15、16連隊(陸軍騎兵第二旅団)というのがあって、日本でも指折りの優秀な騎兵連隊でしたが、それが機甲部隊になったものです。連隊長がたまたま皇族の閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王の孫だったこともあって、規律は非常に厳しかったですが、内地から前線を支援する部隊になっていて、とうとう戦闘へは出ませんでした。

終戦の年の5月末に沖縄が取られて、逆上陸して沖縄を取り返そうと博多に行こうとしたんですが、船がみんな沈められちゃう。その後、日本を浜名湖を境にして上はソ連、下はアメリカで分断しようとしているっていう情報が入って、作戦変更で本土防衛をやろうと浜松に移動したんですが、そこで終戦を迎えて1ヵ月後に兵役解除になりました。

ところが人間なんて情けないものでね、終戦になると将校連中がみんな逃げちゃうんですよ。私もすでに3年目で下士官になっていたんですが、そうしたら澤井君、後を頼む、って逃げちゃうんだから、だらしが無いもんでしょう(笑)、普段威張っていたヤツがね。


伝統の織物技術が工場を救った

―― 終戦直前に八王子市内は9割近くが空襲で焼けてしまいましたが、澤井さんの織物工場は大丈夫だったんですか?

明治中期の建物が現在も使われている

ええ。ここは田舎ですから。この辺りは農業振興地域で、土地の利用は農地に限られているので、買っても農業しか出来ないんです。だから土地がそのまま残っていまして、本当に昔のまんまです。母屋は明治25年に建てて、この棟を親父が作ったのが昭和15年です。裏は私が終戦後に建てたんですが。


―― 八王子市内の機屋さんはみんな燃えてしまっていますよね。澤井さんのところは終戦後すぐ仕事を再開されたんですか?

ところがね、私は戦争に行っていたでしょう。男衆も皆徴用されていましたから、手織りの織機が3台ありましたが、親父が一人ではどうしようも無かったんですね。私が帰ってきてから復活したんですけれど、職人もいないですから、私が先に立って糸を精練して染めて整経(せいけい: 糸を織機に備え付ける前に、沢山のたて糸を平行に揃える)して手織りしてという状態で、一から十までやりましたね。

―― その後、少し落ち着いてくると、織物は本当に作れば売れるような状態になって行きますよね。

ええ、ただ、絹糸が統制になっていましたので、すぐというわけには行きませんでした。戦争で日本経済が崩壊していますから、外国に何か売らないとお金が入ってこない。絹糸はその目玉の品目ですから、まず外国に売る必要があるので、一般の機屋は絹を使ってはいけないという統制令が出るんです。

絹については奢侈禁止令っていうのが昔からあって、百姓町人は絹物を着てはいけない、士だけが着られる時代があったんですね。それは戦時中もそうなんですよ。私は昭和16年に学校を出て織物に従事し始めましたけれど、その時にも奢侈禁止令が出て、贅沢品は作ってはいけないということになって、絹は贅沢品ですから使えなかった。それは後の総理大臣・岸信介が商工大臣の時で先頭に立ってやったようです。戦中の物資調達のために、八王子織物工業組合にも出向いて来て、織機の供出を要請したので、廃業した機屋もありました。

ところが、伝統工芸技術は保存の必要があるからと、伝統工芸的なものをやる機屋だけには絹糸を配給しましょう、ということで八王子に残った機屋がうちも入れて5、6軒あったんです。戦後もその機屋には絹糸が配給されるようになって、そのおかげでうちも復活出来たんです。そうでなかったらそんなに簡単に復活出来なかったと思います。


―― 伝統のことをこつこつやっていたおかげで立ち直れたわけですね。

本当にそうです。だから親父のおかげです。親父も普通の売れる織物だけじゃ気に入らなくて、自分で描いた絵を土台にして伝統的なやり方で織っていた。そういうことがあったおかげで絹糸が配給になって復活出来たんです。