顔八王子伝統工芸の高い技術と正直な「ものづくり」を次の世代へ
撮影:柳本史歩
澤井榮一郎 さん

古くから絹織物の産地として知られる八王子の北部、滝山城址のある山を越えると、多摩川から秋川に沿って一面の水田が広がる。この一画に澤井織物工場がある。澤井榮一郎さんはこの祖父の代から続く工場で長い歴史を持つ八王子織物の伝統を引き継ぎ、それを「多摩織」として国から伝統工芸品の指定を受けるまでに高めた功労者の一人。伝統工芸士として技術の保存、普及にも務めてきた澤井さんは1921年生まれの現在86歳。今年に入って事業はご長男にまかせ、今は気が向いた時に手織りの機(はた)に向かう生活だそうだ。午前中の柔らかい光が差し込む部屋で、質の高い手織りの技法を追及してきた時代を振り返ってのお話をうかがった

多摩織とは



第1話第1話 八王子織物の伝統が「多摩織」に

多品種産地・八王子

―― 反物を1反仕上げるのにどれくらいの時間がかかりますか?

澤井さんが時々作業している「紬織」

作業中の澤井さん

織るだけなら1週間ぐらいで織れるものもありますが、織機(しょっき)にかけられない手織りの長いものだとひと月ふた月とかかります。ただ、そういうのはなかなか商売にはならないんですよ(笑)。納期もありますし、だいたい今は機械織りが多いですね。

―― 5品種ある多摩織ですが、どれも機械織りが可能なんですか?

ええ、糸の太さを一定にして下作りすればどれも機械で織ることが出来ます。多摩織は伝統工芸品として認定されていますので、縦横の糸の本数に規格があって、それに該当しないものは認められません。ですから機械では1寸間に何本と決めて織っていくように設定されています。ところが糸によって、例えば紬(つむぎ)という糸は太いところと細いところができるのが特徴です。こういう太さが一定でない糸を使う場合はどうしても手でないと織れないんです。

太いところだと規格通りに織ると目が詰まって堅くなってしまうし、反対に細いところだと目が空いてしまうので商品価値が無くなってしまいます。また、玉糸という節がある糸はその部分が織機だとつかえるんですね。手織りの場合はそこを取り外しながら織るんですが、機械ではそれが出来ないので隙間や傷が出来てしまって、織物としての価値が無くなってしまうんです。

―― 今、糸のお話が出ましたが、ちょっとご説明をお願いします。

多摩織で使う糸は大別すると三種類です。1匹の蚕が作った繭を本繭と言って、それから取った糸が本糸(ほんし)。玉繭という2匹の蚕が一つの繭を作るものが大昔からあって、いくら改良してもそう作ってしまうんですが、その玉繭から取った糸が玉糸(たまいと)。本繭から糸を解舒(かいじょ:取り出すこと)する場合は順序正しく1本でずーっと取れるんですが、玉繭の場合は2匹で作るものですから糸がそれぞれに取れてしまうので、糸に節が出来ます。紬糸(つむぎいと)は、繭を煮て綿のような状態にしたものを真綿と言いますが、そこから手で紡いで取る糸です。本糸、玉糸、紬糸の順で太くなります。多摩織ではこの3種類の糸を組み合わせて使います。


―― 普通、伝統工芸品は1産地1品種ですが、多摩織は5品種と多いですね?

5品種になったのはもともと八王子が多品種産地だからです。徳川が江戸に幕府を開いて各地の大名が参勤交代で来るようになって、それぞれの土地の名産品が集まるようになりますね。当時の江戸は百万都市でその頃世界一の人口だったそうですが、その名産品が出回って、織物も一般の庶民からいろんな注文が出てくるようになるわけです。その当時、八王子は江戸に一番近い織物産地で、1日で行って来られるので、注文が集中したんですね。その注文に応じてそれぞれ専門の機屋が出来た。それが多品種産地という八王子の特徴になっていったんです。

伝統が無くなる危機感

―― 多摩織が伝統的工芸品に指定されることになった経緯をうかがえますか?

昭和49年(1974)に「伝産法(伝統的工芸品産業の振興に関する法律)」という法律が出来て、われわれも55年に「多摩織」として伝統的工芸品に指定されましたが、この法律が出来た背景には、伝統工芸が無くなってしまうと世界的にも日本が先進国と見なされなくなるといった事情もあったようです。ある日うちへひょっこりと通産省(通商産業省=現在の経済産業省)の偉い方が見えて、イギリスやフランスのような先進国に行ったときに日本の伝統品のことを知らないと馬鹿にされて話が出来ない、それでいろいろ教えてもらいに来たんです、とおっしゃいましてね。

伝統工芸はどこの産地でも、まず原料が自然のものでなければ駄目です。さらに手仕事で、機械では出来ないものをやってきたわけですね。ところが戦後、モノが無くなって、とにかくどんなものでも作りさえすれば売れた時代があって、日本の産業は長くその延長で来てしまった。消費者のことはあまり考えず、儲けを追求する風潮ですね。手がかかる伝統品はそこから完全にはずれていたんです。その日本の伝統がこのままでは廃れてしまう、という危機感があって法律が出来た。それで普通はどこでも1産地1品種なんですが八王子はさっき言ったように多品種産地だから特別に認めましょう、ということになって、私たちが八王子の伝統的な織物を集めてみたら10種類ぐらいあったんです。それを通産省に持っていったんですが、それらを整理して5種類を「多摩織」という名前で指定しましょうということになったんです。


ただ売れるだけじゃあつまらない

―― 昭和49年に伝産法が出来て、多摩織が指定されたのは55年ですね。6年かかっていますが?

それは少々いきさつがあるんです。大島(大島紬)や八丈島(黄八丈)はすぐ申請を出して、その年度内に取りました。ところが八王子の織物は戦後、作りさえすれば儲かる時代を経ていたせいもあって、儲からない伝統品はつまらないと、織物工業組合自体があまり乗り気ではありませんでした。でもわれわれみたいにおじいさんの時代から伝統的な織物をやって来た朴念仁(ぼくねんじん)は、手がかかるものを作らないとつまらないんですよ。ただ売れるというだけじゃ作ったような気がしないし、お客さんに渡ったものが着にくかったり色落ちしたりすぐ駄目になっちゃったら申し訳ない。そういうものが基本に植え付いちゃっているから、それ以外のものはどうしても作れないんです(笑)。

そういう機屋が何軒かあって、私たちは折角そういう法律が出来たんだから、なんとかして認定してもらおうじゃないかと、組合を説得するのに4、5年かかりましたね(笑)。その時、今の八王子商工会議所会頭の樫崎さんが織物工業組合の理事長で、東京府立織染(しょくせん)学校(現在の八王子工業高等学校)の1、2年後輩だったこともあって割合頼みやすいもんですから、何とかやってくれないかって言ってね。ようやく認可されて、初めて「多摩織」という名前が出来たのが55年です。そんなことでようやく始まったんです。