顔八王子中屋ボクシングジム 会長 中屋 廣隆さん インタビュー
中屋廣隆会長

八日町交差点から道1本入った通りに、多くの若者が流す汗と熱気でガラス窓が曇っているジムがある。1994年1月10日に創設、今年で13年目となる八王子中屋ボクシングジムは、短期間で東洋太平洋ライトフライ級チャンピオン 田中 光輝、日本ミドル級チャンピオン 鈴木 悟、日本フェザー級チャンピオン 雄二・ゴメスを輩出して名門ジムとなり、現在も東洋太平洋ランカー、日本ランカーを擁している。会長の中屋廣隆(なかやひろたか)さんは彫刻家を志した後、ボクシングと関わるようになった異色の経歴の持ち主だ。練習用のゴングが響く中、ボクシングと八王子の若者についてお話をうかがった。


第1話八王子でのジム創設まで

高知から東京・練馬、そして八王子へ

―― 八王子にジムを開いた経緯をうかがえますか?

3人のチャンピオン

指導する中屋会長

八王子との直接の関わりは特にないんですよ(笑)。私は高知県出身で、東京には彫刻を勉強するために出てきたんです。ボクシングに出会ったのは江古田の日大に通っている時です。当時は学校も住まいも練馬にあって、ジムも練馬でした。プロボクサーとしては4戦だけやって引退しました。

それからしばらく離れていたんですが、30歳から名門、斉田ボクシングジムでトレーナーとしてボクシングを再開して、30から40までは横田基地の近くの米軍ハウスで彫刻を作りながら、バイクでジムに通っていました。その頃、斉田ジムにいた東洋太平洋ライト級チャンピオンの渡辺雄二は、デビューから僕がずっと見てまして、彼の世界戦も僕がチーフセコンドを務めました。

ただ、トレーナーの立場ではなかなか自分の思い通りにやるわけにはいかないし、やはり田舎に帰って彫刻一本でやっていこうかな、と思っていたころにある人から「ジムをやってみないか」というお話をいただいたんです。私自身は資本も何も無かったけれどそれも面倒見てくれるということで、最初は信じられなかったですが、半年後にその話を切り出すとまた同じことを言ってくれたんです。

それで親方である斉田直彦会長に話をしまして、仲間が多かった福生のほうでジムをやりたい、と言いました。ジムはお互い共存共栄でやらなくちゃいけないから、近くに作ることは出来ませんが、斉田会長は八王子の方ならいいよ、と言ってくれま した。

それでせっかく八王子でやるんだったら住民になって、八王子のみんなに応援してもらおうと思って、こちらに引っ越してきて、ジムの名称も街の名を頭に付け「八王子中屋ボクシングジム」としたんです。それが50歳の時ですね。


初めて観た試合に失望、一転して興味を持つ

―― 学生時代にボクシングに出会ったということですが、ボクシングのどこに惹かれたんでしょうか。

プロの試合を初めて生で観たのが、コング斉藤という、ニューヨークで活躍する初の日本人ヘビー級ボクサーの鳴り物入りの凱旋試合でした。これがボクシング素人だった自分が見てもヒドイ内容でね。相手は世界ランカーとも対戦した強豪という触れ込みでしたが、明らかに練習不足で、せいぜい4回戦ボーイレベルだったんじゃないでしょうか。結局2回KOでコング斉藤が勝ちましたが、初めて観たプロの試合が想像とはあまりにも違う不甲斐ないものだったので、すごく頭に来ましたね。

でも翌日の新聞に寺山修司が「ボクシングほど八百長の難しいスポーツは無い」と書いていて、ああ、そうなのか、と逆に納得したり、前座の試合も含めてテレビでしか観たことが無かった世界を目の当たりにして、自分もこの場所に、舞台に立ってみたい、と思うようになりました。

その頃、舞踏だとか状況劇場の演劇みたいな、身体を使う前衛とかアンダーグラウンドと呼ばれた表現が盛んで、自分でもちょっとかじっていたんです。当時の自分の考え方では、リングの上で2人の男が裸で向かい合って、筋書きの無いストーリーを描いていく。それをレフェリーが裁いていくことによって3人で空間を作って、お客さんに見せる。これは芸術だな、と思いました。それで始めることにしたんです。


スパーリング

―― 実際にリングに立ってどうでしたか?

最初はリングに立ってもそういう感じを持ってやっていましたが、試合をやるようになって、やっぱり勝負の世界だということがだんだん分かってきたんですね。最初の試合は簡単に勝って、次は引き分けで、次にKO負け、判定負けと続いて、ボクシングで勝つことの素晴らしさ、嬉しさとか負けることの悔しさに目覚めたんです。私の場合はそこで選手としてのキャリアをストップしてしまったんですが。



ジム内の様子

伊礼杯トロフィー

度は辞めたボクシングを再開

―― そこからもう一度ボクシングに関わるようになったのは何故なんでしょう?

20代の後半は自分の中に何か残したまま、彫刻の方も残したまま、両方のキャリアをストップしてしばらく生活していたんです。その頃はもう子供も3人出来て、周りから見たら幸せな家庭生活だったかもしれないけれど、自分から見たら何のために上京してきたのか、という初心を忘れた堕落した生活に思えていたんですね。

それで30で、もう一回やり直す、って女房に宣言したんです。女房は信じられなかったみたいですけれどね(笑)。

―― 30歳でもう一度現役に復帰しようとしたんですか?

うん、そう思ったけれど、ちょっともう身体も大変だったし子供もいたので無理だということが分かって、それでトレーナーをやることにしたんです。彫刻のほうも28、9くらいからまた始め出したんですが、八王子でジムを開くときに5年間封印したんです。ボクシングは勝負の世界で二股かけてやれるほど甘くないですから。今も彫刻の時間はあまり取れませんが、一昨年くらいから、少しずつやり出しています。

きっかけは五年前に亡くなった伊礼喜洋(いれい・よしひろ)です。8戦全勝でフライ級新人王を取って、次の六回戦の試合後に硬膜下出血で亡くなった彼の名前を残そうと思って、彼のガッツポーズを彫刻にしたトロフィーを作りまして、中屋ジムで新人王をとった選手にあげる「伊礼杯」というのを創設したんです。このオリジナルは石膏の直付けだからちゃぶ台の上で出来るんですよ。それを型取りしてブロンズにしたものです。今年も一人、ミドル級の新人王を取れたんで、渡すことになっています。