→第2話 「商いは値段より品物で買え」へ
→第3話 「八王子の活性化をどうするか?」へ
→「顔」トップページへ


八日町交差点近くの現在の店舗
慶長年間(1596〜1615)創業の老舗、黒沼鰹節店は八王子市八日町の交差点近くにある。21代目店主、黒沼章さんは大正7年生まれの八十八歳。1980年代には八王子商工会議所の副会頭として町の活性化に尽力された。八王子の姿を間近で見続けてきた黒沼さんの眼に、その変化はどのように映っているのだろう。かつての賑わいから見れば現在の八王子には新たな活性化が必要、と語る黒沼さんの言葉に真摯に耳を傾けることは、今、大きな意味があるのではないだろうか。3話に分けてお届けする。

八王子と共にあった黒沼鰹節店の歴史

黒沼 章さん
 ――慶長年間のご創業だそうですが。
言い伝えでは初代の命日が慶長十年、徳川がまだ天下を取る前だね。初代はもともと士族で、徳川家康から「武田との合戦で戦死した八王子の無名戦士を弔う寺を建立せよ」という命を受けて、八王子に来て大善寺を建立した。その後そのまま平民になったそうです。そのときからずっと八王子にいるわけだね。当時、関東に壇林(だんりん=仏教の学問所)がいくつかあって、大善寺はその中でも一番格が高かった。
 ――当時からずっと鰹節を商っていらしたんですか?
商売は平民になってから「徳利亀屋(とっくりかめや)」っていう屋号で旅籠(はたご)を始めたんです。徳利亀屋はずいぶん有名だったらしくて、鼠小僧次郎吉だとか国定忠治なんかの講談本にも出てくる。

「八王子の宿じゃあ徳利亀屋なら極上だが、あそこはあんまり繁盛して泊り客が多いから、万一足でも着いちゃあつまらねえからなあ」(鼠小僧次郎吉講談本より)
 ――繁盛していた旅籠だったんですね。

国会図書館で見つかった江戸時代の「徳利亀屋」の絵。店の前は甲州街道。現在の買物袋に印刷されている
私より5、6代前の話だけど、八王子は当時から織物がさかんでした。徳島から来た青年が徳利亀屋を宿にして、藍玉 (あいだま)っていう藍染の元を玉にしたものを八王子で売って歩いていた。なかなかいい青年だから婿に迎えようと、その人を入り婿さんにした。私も婿だけど、私みたいなドラ婿とは違うんだな(笑)。
その息子がオレは旅籠なんか嫌だ、と言って居抜きで旅籠を譲って出ちゃった。その人が父親が亡くなってから、故郷の徳島まで分骨しに行ったらしい。分骨って言っても、当時は火葬ではないから、爪だとか髪の毛だと思うんだけどね。
それで、徳島から土佐へまわって鰹節に出会ってね。これを八王子で売ってみようと、当時は交通の便が無いから船でもって横浜へつけて、横浜から大八車で運んできたそうです。それで鰹節屋を始めたという言い伝えがある。そういう記録もいろいろあったらしいけど、戦災でみんな焼けちゃったんだ。うちの蔵がボンクラだったから(笑)。

先代の黒沼鰹節店
 ――八王子の空襲はひどかったそうですね?
終戦の2週間前、8月1日(2日未明)に空襲があって、だいたい八王子の8割が焼けちゃった。そのころ私は東京の部隊にいて、空襲の2週間くらい前に中隊長と下士官3名で部隊を東京から疎開させる場所を探しに来ていて、八王子で一泊してね。私はなるべくこっちに戻ってこようと思っていたんだけど、なかなかいいところが無い。今の工科大学近くの雑木林にいい場所があって、地主を探して了解を求めた。それが八王子が焼ける1週間くらい前だったな。そのあと兵舎を作る算段なんかをしているうちに、空襲があって終戦になっちゃった。私は25歳くらいだったな。