顔商店街の賑わいを次の世代につなげたい
井桁屋会長 大貫文蔵さん

50万都市八王子、甲州街道の中心・八日町で江戸時代から商いを営んできた井桁屋の現会長・大貫文蔵さんは15代目、現在、八王子商店連盟の理事長でもある。八王子の焼け跡からの復興とともに育ち、高度成長期を支えた世代である大貫さんの経験はそのまま、地元商店が大型店舗やインターネット登場といった急激に変化していく時代とどう渡り合っていくか、の歴史でもあった。


第1話

現在も甲州街道に立つ井桁屋

焼け跡の記憶

―― 井桁屋さんも八王子空襲に遭われたのですか?

ええ、何もかもなくなってしまいました。物心ついた私の最初の記憶が、焼夷弾の爆撃で右膝を火傷したことなんです。小学校6年頃まであとが残ってました。みんなで逃げて命は助かったけれど、結局何もかも焼けてしまいました。それからしばらく住んでいた蔵は焼夷弾の直撃で天井が無いものですから油紙を渡して、乞食生活みたいだったです、本当に。

番頭さんたちもみんな戦争に行ってしまいましたし、残った母と二人の叔母、私と姉の5人で焼け跡に住んでいました。建物が何にも無いですからここから中央線がよく見えましたよ(笑)。私が幼稚園に入る頃までそんなだったんですよ。

私どもは、町の真ん中の商店街で荒物屋を代々やってきたんですが、昭和18年に私が生まれた直後に、父が召集されて中国から沖縄に行って戦死してしまって、戦争中の非常に大変な時代やさらにその前の良かった時代についてはまるっきり知らないんです。父から直に話を聴けなかったのと、祖父も若くして亡くなっていましたのでね。お袋は父が帰ってくると堅く信じていたそうですが、結局会えずじまいでした。そういうご時世だったのですね。

店は父方の一番下の叔父とその上の叔母が続けていたんです。私が社会に出たのが昭和40年で、それからは高度成長の申し子みたいな時代でしたね。学校を出て関西で見習いを1年、41年に帰ってきたときにはまだ叔父も叔母も現役でした。2年後、私が25で結婚したのを機に経営をバトンタッチして今日までやってきたんです。


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八王子大空襲から2ヵ月後の八日町(昭和20年10月) (株)郷土出版社刊『目で見る八王子・日野の100年』p106より転載

新たな業態の登場

―― 高度成長期以降はどんな様子だったんでしょうか?

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昭和43年(1968)の井桁屋

昭和40年代の高度成長期は、どの商売も売り上げが1年に3割増えるのは当たり前(笑)、5割増やさないと伸びたってことにならないんです。いい時代でね。面白くて一生懸命に頑張ったんですが、昭和48年のオイルショックでちょっと様子がおかしくなって、昭和50年代に入ると今まで無かったような新しい業態が生まれ、アメリカの郊外型ホームセンターを参考にしたドイトが、第一号店を埼玉県与野市に作ったんですよ。

金物屋の連中は、これからはこれが良さそうだって全員見に行って(笑)、私も「これだ」と思いました。ただ店内には、金槌とか万力みたいなたまにしか売れないものが山積みでね。馬鹿だなあ、こんなもの売れるわけ無いじゃないか、と思ったんですけど、つくづく新しい商売は素人の方が上手くいくんだなって思いましたね(笑)。プロは過去に売れなかったものは置きません。ところがドイトさんは元々タクシー会社でこういう商売は初めてだから、良いも悪いも全部アメリカの真似をしたわけですよ。

当時は自動車で買い物なんて考えられなかった時代で、ご近所相手の商売だったら、一生モノなんて一回買えばそうそう売れないですよ。ところが自動車で広い商圏を取れば、めったに売れないものでも欲しい人はそれなりにいるんですよね。実際ドイトさんはすごい勢いでどんどん大きくなってしまった。それを真似した店舗が全国に出てきて、ホームセンター、DIY (Do It Yourself)が市民権を得てきたんです。私も遅れちゃいけないって、日野の南平にお店を作りました。ところが町中のお店作りのまま、郊外はお客さんもちらほらとしか通らないし、これじゃあ売れっこないですよ。郊外のお店という形だけ真似したわけですよね。


目の前の大型ディスカウントストア対策に四苦八苦

それで品揃えを増やそうと、今まで売ったこともない靴やスポーツ用品、もちろんDIY商品、最後には熱帯魚から小鳥まで扱って動物園みたいになっちゃった(笑)。ドイトを見てきただけで、分からないなりに奮闘して、今から言えば業態を作りに入ったわけです。一人で考えてやっているだけだから軌道に乗るまでずいぶん時間がかかりました。

私が試行錯誤している間に、資本の多くあるところはアメリカで盛んな業態を真似して、ドーンと出てきたのが郊外型大型ディスカウントストアだったのです。それが、あろうことかウチの南平店の前に出来ちゃったんです。うちの店は売り場面積150坪、そちらは1200坪(笑)。これは競争っていえば競争ですけど、悪く言えば商いの喧嘩ですよね。しかも相手を潰して売り上げを全部いただく、という基本戦略なんですね。なにしろ、うちで売ってるものは全部3割値下げしてこちらの原価で売ってくるんですから。

これからチェーン展開だと意気に燃えていたところに、今度はディスカウント対策ですよ。どうやったら生き残れるか必死で考えて、「相手が売ってないもの」ってことで着目したのが園芸でした。先方の園芸はテナントで、つまり品揃えとしては必要だけれど、メリットがあれば自社でやりますから。これはやりたくないんだな、と思って、園芸に力を入れたらうまく当たったんですよ。それでなんとかやっていけるようになったんです。


デフレ、大手ドラッグストアの進出

―― その後のチェーン展開はどうされたんですか?

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(株)日本マーケティングセンター(現・(株)船井総合研究所)刊行
『'83日本の繁盛店100選』
八王子の繁盛店として紹介された

次のお店を考えたとき、大型ディスカウントストアとバッティングしないように考えて、ローカルなら、と、五日市に出店しました。田舎はいろいろお付き合いがあるから、とギフトの品揃えを重点的にやったらうまく行くと考えました。そして次はこの際近くに出そうと工学院大学前にお店を作ったあたりから世の中が少しずつおかしくなって来たんですよ。

簡単に言うとデフレが始まってチェーン展開が難しくなって来たんです。結局、五日市店は閉店して、南平店はリフォーム業を併設するように切り替えて行きました。八日町の店舗は、近場のお客さんに便利にしていただくお店ということで、何を加えて扱ったら良いかを考えて、薬の業界に入ったんです。ところがその頃は思いもよらなかったですが、しばらくすると今度は大きい資本のスーパードラッグがあっという間に全国に出来て、結局大手が何社かでほとんど寡占化状態になってしまいました。町の薬店はほとんど調剤薬局に転業ですよ。薬の世界もホームセンターと同じになってしまったんです。